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#06 「毛筆細字技法」で日本の詩歌の世界を展開する KUTANism全体監修・秋元雄史が自ら現場に足を運び、ナビゲーターと対談をするなかで九谷焼を再発見していく連載シリーズ「秋元雄史がゆく、九谷焼の物語」。第4話から第6話は「技法の継承と個性」をテーマに、九谷焼を代表する技法と技の引き継がれ方に迫ります。今回伺ったのは、毛筆細字の技法を用いて独自の美を表現する三代・田村敬星さんです。

漢詩や和歌といった古典文学を極細の毛筆で磁器に描き込む技術「毛筆細字技法」。目を見張るほど精緻で美しく描かれた細字は、焼き物の世界ではほとんど見ない大変珍しい技術です。明治期から1世紀以上、四代にわたって一子相伝で受け継がれ、現在は三代・田村敬星さんと娘であり四代の星都さんによって守られています。毛筆細字技法について、またこの技術がどのようにして生まれ、いかに受け継がれてきたのかをお聞きしました。

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田村敬星さん

1949年石川県生まれ。高校卒業後、祖父であり二代・田村金星に師事し毛筆細字技法を学ぶ。1977年日本伝統工芸展、1979年日本陶芸展に入選するなど数々の展覧会で入選。1983年日本工芸会正会員認定。2005年石川県指定無形文化財九谷焼技術保存資格保持者に認定。毛筆細字の技法を用いて書や詩の美を追求し、九谷焼の可能性を広げている。

連綿と受け継がれてきた「毛筆細字技法」
九谷焼と文学の掛け算で奥深い世界を表現する。

田村敬星作「百人一首耳付扁壺」。ぎっしりと空間を埋め尽くすように細字が描かれている。

秋元:
田村さんの「九谷毛筆細字(さいじ)技法」は、高度な技術として評価を受けていらっしゃいますね。実物を見せていただくと、改めて凄さを感じます。
田村:
内側の細字はもちろん、外の絵付けも全て自分で行っています。歴代からずっとこのような細字の仕事をしてきたのですが、加飾は私の代になってから自分で行うようになりました。こちらは初代・小田清山(おだせいざん)の作品ですが、当時は外側の絵付けを金沢の職人さんにお願いして、初代は文字のみを描いていたと聞いています。

初代・小田清山の作品。当時は器の内側に細字を描くのが定番だった。

田村:
こちらは花詰(※)という技法を使って絵付けを施しています。色合いが上品な作品です。初代の作品と比べると、私はどちらかというと幾何学的な模様やシャープな形状のものが多いかもしれません。

(※)花詰/菊や牡丹、小花などの花の文様で埋め尽くしていく技法のひとつで、明治期に誕生した。

秋元:
ご自分の代になってからは全部お一人で仕事をしているということですが、素地は職人さんに依頼しているのでしょうか?
田村:
形をデザインして実寸サイズの立体的な見本を粘土で作るところまで自分で行い、そこから先は専属の素地師さんにお願いしています。私は若い頃から九谷の分業制というものに疑問がありまして、昔の職人さんたちは皆素晴らしい仕事をされていますが、分業をしている限り、陶芸家とは呼ばれるけれど作家にはなれないんですよね。やはり作品の全てにおいて自分の意志が反映されていなくてはならないんじゃないかと、そういうことを思うようになりました。形作りから全部自分でやろうと。一方で素地作りは指が硬くなってしまって絵付けに支障が出るということがありまして、せめて、その原型は自分で作ろうということでやっています。ですから私どもの仕事というのは、焼き物、色絵、書、そして古典文学、この4つを習得して初めて作品ができますので、一人前になるまでにどうしても時間がかかってしまうんです。
秋元:
作家として細字を仕事にしていったのは田村さんの代からですよね。改めて伺いたいのですが、細字技法はどのように生まれたのでしょうか?
田村:
細字技法は明治の初め頃、南加賀地方で生まれたと言われています。九谷焼は分業ですので素地を作るのは素地師、絵付けをするのは絵付け師と分かれていますが、さらに絵付けも、輪郭を専門で描く職人や色を塗る職人、金彩の職人など加飾方法によって仕事が分担されていました。細字は様々ある加飾方法の一つとして用いられていたんです。
田村:
初めの頃は漢詩文が主流で、例えば中国の漢詩「赤壁(せきへき)」や日本の漢詩人・石川丈山(いしかわじょうざん)の詩が描かれていました。当時の作品は細字が内側に描かれたものばかりですね。
秋元:
現在では田村さんが外側にも細字を描いていらっしゃいますが、昔は全部内側だったのですね。
田村:
初めは内側から出発したんです。しかしながら初期の作品は湯呑の中に細かな文字が描いてあるというだけで、いわゆる書の美しさと呼べるようなものではなく、完成度が大変低いものでした。そんななか、明治27年頃、私の曽祖父であり初代・小田清山が独自の工夫により、百人一首など日本古来の歌を題材にかな書きで表現することで毛筆細字技法を完成させました。
秋元:
それまでも細字的な装飾は存在したものの、かな文字で表現をしたのは初代が初めてだったということですね。
田村:
そうですね。それに加えて、祖父は文字の正確さや美しさにこだわりました。ただ描いてあれば良いということではなく、漢字やかなの「字の良さ」を伝えるものを描いて評価を得たのです。
秋元:
「なんとなく文字になっている」のではなく、書としての美しさや技術を追求されたのですね。初めの頃の作品はどういったものが多かったのでしょうか?
田村:
番茶器や湯呑などがほとんどでした。
秋元:
なるほど、日常使いのものだったのですね。

田村金星作。二代は初代による細字の技術をベースに、さらに表現を発展させた。

田村:
こちらは私の祖父で二代目にあたる田村金星(※)の作品です。

(※)田村金星/明治29年(1896年)、石川県白山市(旧松任市)に生まれる。独自の細字技法を確立した小田清山に師事し、その技を引き継ぎながら、さらに精妙な表現技術に発展させる。石川県指定無形文化財保持団体である九谷焼技術保存会会員として、九谷焼の独自の技術であるとされる細字の技を守り伝えた。

秋元:
この作品のように、外側にも文字を描いてみたり、漢字だけでなくひらがなを使ってみたり、漢詩からかな詩に挑戦してみたりと、徐々に技法を洗練していったのですね。
田村:
初めの頃は、ある種の好奇心というか、手に取った人を驚かせるような技術として始まったんですね。それがだんだん技術力をアップしながら完成度を増して、最終的には誰が見ても「すごい」と言うような技術の限界に挑むところにまで発展していきました。明治の後半から大正時代にかけては、九谷の金襴手も大変精巧で、細字と組み合わせた色彩的にも素晴らしい作品もたくさん生まれています。
田村:
こちらは初代の作品です。だいたい80〜90年前のもので、内側には百人一首、外側にはカルタ割で絵付けが施されています。
秋元:
すごく華やかだなあ。本当に繊細な、量産できない仕事ですよね。
田村:
それから、こちらは私の祖父である二代・田村金星が作った60年ほど前の湯呑なんですけど、ちょっと珍しくて、「奥の細道」の句だけじゃなくてストーリーが全部描いてあるんです。
秋元:
これはすごい!
田村:
このあたりの作品になると、字の良さというものが分かっていただけるのではないかと。この頃も、絵付けは金沢の職人によるものですね。
秋元:
二代目までは問屋さんなどから注文を受けて作品を作っていたのでしょうか?
田村:
そうですね、明治時代は産地問屋さんの仲介や、金沢や小松にある九谷焼のお店からの発注でこういったものを作っていたようです。
秋元:
例えばこの作品の場合は「奥の細道をテーマにしたものを」というような感じで注文を受けていたのでしょうか?
田村:
祖父自身、文学的なものを作りたいという気持ちがあったようです。その頃、北出塔次郎先生と出会い、多様な作品の作り方ですとか、文学的な表現の織り交ぜ方ですとかをアドバイスしていただいたんですね。例えば面白い作品で、樋口一葉の「たけくらべ」を描いてほしいと依頼されたものがあります。外の絵付けは北出先生がされたんですね。それが一つのきっかけとなって、作家的な芸術性を含んだ作品作りへと向かっていったわけです。
田村:
初代は篆書体(てんしょたい)や楷書体などを用いて、文字を装飾として発展させました。次に祖父が日本文学的な世界に踏み込んで、他の装飾との一体感をさらに持たせていきました。作品から推測するに、日本的な感性の焼き物を作りたいといった考えで活動をしていたのだと思います。
秋元:
初代は習字か何かを習っていたのでしょうか?
田村:
初めは独学だったのですが60歳になってからようやく書家について、改めて勉強したそうです。
秋元:
仕事の中では割と後期になってから細字を始めたのでしょうか。細字に特化していくようになるのは、60代に入ってからということですね。
田村:
それまでも細字を描いていましたが、ある時に京都のスポンサーから「本格的に書を勉強してみてはどうか」と言われ、金銭面での支援を受けて、美しい文字を描けるよう勉強をしました。こちらは珍しい作品で、赤で細字が描かれたものになります。
秋元:
おお、これは珍しいですね。
田村:
細字の作品の9割が黒字で描かれているのですが、赤字もあるというのは、一つのレパートリーとして作ったのではないかと思います。昔から黒字が多い理由は、やはり金襴手や細描との相性が良いということなんでしょうね。
秋元:
デザイン的な理由ということですね。それにしても相当細かい仕事だなあ。二代は素地もご自身で作っていたのでしょうか?
田村:
祖父は窯屋さんに自分のイメージする形を依頼していました。専属の絵付け職人さんがおりまして、祖父は文字を描き、自分の理想の絵を職人さんに描いてもらっていたという。ある工程だけに専念するのではなく全体のデザインを考えて一つの作品を作るというのは、やはり北出先生との出会いが大きかったようです。
秋元:
二代の頃も、形状としては湯呑や番茶器が多かったのですね。
田村:
そうですね。それが昭和10年あたりを過ぎてから花器や香炉なども登場するようになります。香炉の形状は細字と相性が良く、私自身も香炉を一番得意としています。
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